交通事故のニュースで、お年寄りがアクセルとブレーキを踏み間違えて車が暴走し、歩行者をはねるようなことがあります。
それで、というわけではないですが、最近、親しい友人が運転免許を返納したということもあり、小生もそろそろ考えなければいけないと思っています。
お年寄りの交通事故に関係する要因として、例えば、
・本人は認知症だったが、家族が運転をやめさせなかったという家族間の問題
・交通不便な土地で、車を手放せなかった、という地域的な生活環境の問題
・車自体の誤動作の可能性
等々、一つの事故には様々の要因がからんでいます。
事故が起こりにくくするためには、このような様々な要因のつながりを全体として考えて対処する必要があり、それをシステム論の分野では「システミック・アプローチ」と言います。
とはいえ、要因のつながりといっても考えればきりがないですから、どこまで考えるかが問題となります。
参考文献:「システム思考とシステム技術」 五百井清右衛門他
この本の著者は洒脱な方のようで、「システムをどこまで考えるか」について、以下のような落語の小噺が書いてありました。
物知りのご隠居と八っつぁんの会話
八 「ご隠居さん、東京を出て西へどんどん行くと何処へ行きますかね」
隠居 「大阪だな」
八 「そっからまたどんどん西へ行くと」
隠居 「九州だな」
八 「そっからまたどんどん西へ行くと」
隠居 「唐天竺だな」
八 「そっからまたどんどん西へ行くと」
隠居 「気のきいた人間はその辺で引っ返して来るよ」
著者によれば、考えるべきシステムの範囲は、対象を研究しようとする当該研究者の「何を、どこまで知りたいか」という研究目的に依存するのだそうです。
つまり、知りたいことに応じてシステムとして考える範囲は違うものであり、システムを扱って何らかの有用な結果を得るには、この小噺にあるような「気のきいた人間」を前提としているということなのでしょう。
最初に書いた交通事故の場合でも、裁判で当事者の責任を確定させる場合と、社会的に事故の根絶を目指す場合とでは、「システム」として考える範囲は違うはずです。
産業界でも、何かトラブルが起きると、原因の分析が行われます。
その場合に、九州まで行けばいいものを、唐天竺まで行かされたり、逆に唐天竺まで行くべき問題を名古屋あたりで引き返して来たりという「気の利かない人間」がいると大変です。
本当の原因までたどり着かなくて検討を終わりにし、再発したりすることは良くあるのですが、見識をもってシステミックなものの見方、対処をする必要があるということなのでしょう。
何回かにわたって、システミックについて考えてきたのは、IAEA(国際原子力機関)の原子力関係の基準に「システミック・アプローチ」ということが書いてあるためですが、「全体相関的取り組み」という訳語もあるようです。
参考:GSR Part 2 安全のためのリーダーシップとマネジメント、IAEA 2016年
この基準を運用するためのガイドラインを作成するために、小生も3度ばかりウィーンへ出かけたのですが、その話はまたの機会とさせていただきます。
(おわり)