百人一首に「千早ぶる 神代もきかず 龍田川 からくれなゐに水くくるとは」という歌があります。
その意味を問われた人が、龍田川は相撲取りで、花魁の千早ちゃんにふられて、神代ちゃんも言う事を聞かず…という話にしてしまうという落語があるのをご存知でしょうか。
こんなにひどい勘違いはなかなか起きませんが、《言葉の意味を取り違えると全体の意味が伝わらない》ということはよくあります。
福島第一原子力発電所事故の元国会事故調査委員会委員長の黒川清氏は、「説明責任」という言葉について以下のように書かれ、国の委員会等でも同じような趣旨で発言されています。
『この二十年ほど「アカウンタビリティ」という言葉が頻繁に使われる。なぜか日本では「説明責任」などという「無責任な」言葉になっている。』
出典:「なぜ異論の出ない組織は間違うのか」宇田左近著
これを見て、黒川さんも面白いことを仰るなと思ったものです。
国会審議のニュースなどを見ておりますと、「関係者は説明責任を果たすように」と言っていることがよくありますが、この場合の説明責任は「説明する責任」という意味で使われています。
一方、次の文章は米国のある原子力発電所のリーダーシップに関係する資料を翻訳したものです。
『説明責任には、「自分の状況を打破し、望ましい結果を得るためには、他に何ができるか」を常に問う考え方または態度が含まれる。』
これを読むと、「説明責任」が単に「説明すること」だけを責任の範囲にしているわけではないことがわかります。
むしろ「説明責任」を「説明する責任」に読み替えると全体の意味がうまく理解できなくなります。
一般的にはアカウンタビリティを「説明責任」と訳すことが多いですし、原子力関係者にとっては「説明責任」は大変重要なことです。
ただし、事の本質を理解するためには、言葉の本来的な意味をもっと深く読み取っていく必要があるのです。
つづく