民主制における適正手続きによる意思決定(第2回)

2021年01月17日 19:32

前回は「民主主義」一般のことを長々と書いてしまいましたので、今回は小生の経験をまじえて民主的な意思決定について書きます。

明治のはじめに欧米を回った使節団の人が、ベルサイユのような宮殿を見て「真宗門徒の仏壇に似て」と書いているそうで、金ぴかのものとして日本のお仏壇を思い浮かべたのでしょう。

また、議会を見学して「やんごとなき国の評議であるのに、市場のセリのようであった」と書いています。

日本の国会でも「やんごとなき国の評議」に、きたないヤジを飛ばしたりして最低だなと思うことがありますが、それも国民が選んだ人々ですから、前回書いたように、チャーチルがデモクラシーを「最低の統治形態」というのも納得できる気がします。

小生が関わっている民間規格を作る委員会では、ルール作りを公平、中立、透明な形で民主的に行うため、国会の審議に似た適正手続き(due process)によっています。

重要な案件ですと、1回目の投票では、反対投票がたとえ一票でもあると可決されません。

少数意見を尊重し間違いを少なくするためですが、反対の意見を十分検討した上で、2回目の投票では多数決で決まります。

少数意見を尊重した上で、最後は多数決で決めるというのは、一応合理的で民主的なやり方といえるでしょう。

ところが、自分の経験では実際に反対投票に対応するとなると大変な場合があり、数人で分担するのですが、ご意見に対する回答を書いていたら最終的にはA4で47ページにもなったことがあります。

何の因果でこんな目に合わねばならないのかと、情けなくなりますが、このような時に前回ご紹介したデモクラシーについてのチャーチルの言葉を思い出すわけです。

しかし、どの世界でも「鶴の一声」とか「水戸黄門の印籠」によって意思決定が円滑に進むことがあり、うまく行っているかぎりは悪いことばかりではないでしょうが、大きなところで意思決定が間違っていると大変なことになります。

例えば、設計基準に間違いがあれば、事と次第によっては大変なことになる可能性があります。

これが堯舜※の世ならともかく、前回紹介したチャーチルの言葉のように「罪と悲哀」に満ちたこの世の中ではそうもいかない、いかなかった、というのが現実かと思います。

※堯舜:儒教では、堯と舜は中国古代に徳をもって天下を治めた理想の君主とされる。

以上は、原子力界でこれまでに起きたことをふりかえってのことですが、現場作業から国レベルの政策まで、様々な「意思決定」が行われていて、これを間違いなく行うためには、民主的な制度の中で、少数意見の中にあるかもしれない真実を探して、間違いをできるだけ少なくするように努力することが必要ということになります。

その際に、人と組織のあり方が問題になるということは、福島第一原子力発電所の事故から得た教訓ですが、くわしくは別の機会にします。

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