オリンピックが無事終わりました。
開催の可否について、コロナ禍の中で様々な意見はあったと思うのですが、若者たちがはつらつと競技するところには、多くの人が勇気づけられたのではないでしょうか。
このオリンピックに向けた景気づけだったかどうかはわかりませんが、一昨年のNHK大河ドラマで「東京オリムピック噺」が放送されていました。
前回の、歴史をシステミックに見ることとの関連で、ドラマの一場面を取り上げてみます。
それは1932年、若者たちが夏のロサンゼルスオリンピックを目指して練習に励んでいるころのことです。
まず、「オリムピック応援歌」のお披露目が行われるシーンが映し出され、主人公のマーちゃんこと田畑政治が、曲が演奏される舞台の上でお笑い芸人のように歌って踊り、場を盛り上げています。
そこで、音楽はそのままにパッと画面が切り替わり、銃を持って犬養毅首相の暗殺に向かう青年将校が映し出されます。有名な5.15事件です。
オリムピック応援歌「走れ大地を」
走れ大地を 力の限り
泳げ正々(ここで犬養毅邸へ場面転換)しぶきをあげて
君らの腕(かいな)は 君らの脚(あし)は
我らが日本の 尊き日本の
腕だ脚だ(ここで発砲)
歌の途中で場面が転換した瞬間、私は健全かつ明朗な音楽とテロの映像のミスマッチにアッと驚き、軽い戦慄を覚えました。
それが何を意味するのかがずっと気になっていたのですが、最近、オリンピックの前に再放送された総集編を見たところ、問題の場面で上記の応援歌の歌詞がテロップで映し出されているではありませんか。
すぐれた芸術がそうであるように、この場面にも様々な解釈があり得ます。
例えば、
解釈1:NHKが音楽を切り替えるのを忘れた。
この可能性はほとんどないでしょう。そんなことなら受信料返せと言われますからね。
解釈2:純粋な動機で立ち上がった青年将校にもこの歌がふさわしいと考えた。
犯人の裁判では、国民から100万通を超える助命嘆願が寄せられたそうですが、この解釈はテロを許容することにつながるので、受信料返せ、ではなくて放送審議会に叱られます。
しかし、二つの異なる場面を一つの音楽、歌詞でつないでいるところには、特定の演出意図を感じざるをえません。
例えば、オリンピックに向けて練習に励む青年たちと、テロリストたる青年将校に共通する何かがあるのだ、というような。
(つづく)