前回、名古屋の平和公園に残るロシア人の墓碑を紹介しました。
日露戦争の頃、郷里に近い豊橋にも捕虜が収容されていたことを思い出して検索してみたところ、次の文献を見つけて、地元の図書館で読むことができました。
出典:「豊橋ロシア俘虜収容所始末」
愛知大学綜合郷土研究所紀要第23輯より、近藤恒次執筆
偶然にも、筆者の近藤恒次氏は、高校時代に国語を教えていただいた恩師でしたが、こんなところでまたお世話になるとは思ってもみませんでした。
これもプーチン氏のおかげ、というのは冗談ですが。
なお、近藤先生は、教師というよりは郷土史の研究者として多くの著書を残しておられます。
以下、文献から興味深い部分を取り上げて、私見もまじえてご紹介します。
豊橋では、日露戦争の俘虜(当時の用語で、捕虜と同義)が、関屋町の悟真寺(浄土宗)に将校40人、高師原の軍用地に建設された施設に下士・兵卒835人、合計875人収容されていました。
俘虜の処遇はというと、当時は、日本が文明国の仲間入りをする時代ですから、ハーグ陸戦条約の「俘虜は人道をもって取り扱うこと」という規定に従って人道的に扱われていたようです。
国が定めた「俘虜取扱規則」により、衣食住はもちろん、フランス経由でロシア政府から受領した給与が支給され、将校は規則の言葉によると「自由散歩」が許されていたとか。
悟真寺からは目と鼻の先にある遊郭に出入りして、問題になったこともあるようで、とんだ「人道的取り扱い」があったものです。
そればかりか、日露講和の頃には、ロシア皇帝から旅順防御軍の兵士に対し、大・中佐900円から下士卒25円まで、「労苦に対する賞金」が与えられたそうで、講和成立となれば自由の身ですから、東京、横浜、神戸等へ旅行する人もあったとか。
このあたりは、俘虜といっても「生きて虜囚の辱めを受けず」と言った太平洋戦争のころとは随分イメージが違うので、近藤先生も驚きをもって書いておられます。
▲俘虜の将校がいた悟真寺
信教も自由なので、朝晩のお祈りと、教会に通うことも認められており、「豊橋俘虜の教会行」という当時の新聞記事によれば、70名が豊橋ハリストス正教会で説教を受けたことがあったそうです。
関屋町の悟真寺から教会までは、歩いて10分もかからないですから、通うのにも便利だったでしょう。
現在の教会の聖堂は1913年に建てられたもので、重要文化財になっていて現在補修工事中ですが、先日近くまで行ってみました。
下の写真で、白い屋根のようなところが聖堂への入り口です。
きれいな写真はネットで見られますので、かえって貴重かと思います。
なお、日露戦争当時は木造2階建ての会堂だったそうです。
▲現在の豊橋ハリストス正教会(2022.5.28)
補修工事を記念して、豊橋美術博物館で関連する展示をしていましたので、ついでに見てきました。
小さな展示室に入ると、正面に俘虜の画家が描いた「神使長ガウエルとミハイル図」2面が展示されていました。
真ん中にあるロシアのイコン(聖像画)の左右に配置されており、宗教上の意味は良くわからないですが、高さ177cmの堂々たるものでした。
近藤先生の文献で知ってはいたのですが、実際に見るのは初めてでしたので、感激でした。
画家の名前は「アンドレイ・バターレエフ」となっており、神田ニコライ堂の名前の元になったニコライ大主教が東京から慰問に訪れたことに感激して描いたものだそうです。
他にも、日本で亡くなった兵士の墓碑(写し)があったので何気なく読んでみたところ、所属、出身地とともに、死亡日が9月20日とあるのを見てはっとしました。
9月5日がポーツマス条約調印による講和成立で、11月には帰国が始まりますから、この方は講和を知り、帰国の日を待ちつつ亡くなったのでしょうか。
日露戦争に限らず、戦争をめぐる様々な人間の所業を見るにつけ、「人間というものは、条件がそろえば何でもしてしまうものだ」という、ある宗教家の言うことがもっともだと思えてきます。
しかし、悪いことばかりではなく、人間にはポジティブな一面もあるので、それを生かすという発想も必要かと思います。
自分の専門分野に照らして言えば、原子力の安全には、技術的なことだけでなく、それを扱う人と組織が関係してきます。
最近では、安全を確保する考え方として、人の間違い(エラー)に対処するだけでなく、良い側面にも着目しようということが言われています。
参考;Safty-1からSafety-2へ
E.Hollnagel 著(2015)
これも、以前ブログに書いた「システミックなものの見方」の一つではないかと思います。
(つづく)